どれもすべて、戯れ言で夢

ボーダーオブヒョンシル

例えば、誰かが他者に「ゲームやアニメなど物語の世界と、現実の世界との区別が出来てないんじゃないか」と批判的な言い方をする。おそらく、言った本人は、自分はその区別が出来る側の人間だという前提つきで。
そんな風に、人が「自分は虚構と現実の区別ができる人間だ」と断言できることにぼくは懐疑的であり、それは羨ましく思っていることの裏返しでもある。虚構と現実は違うという認識はあるつもりだけど、その境界線がぐちゃぐちゃになることが、月に一度くらいのペースで起こる。それは、目が覚めた後、少なくとも10分は引きずるような、怖い夢や焦る夢を見たときだ。
目覚めてから「なんだ夢か……」までしばらくかかる夢を過去にいくつも見ている。そのたびに、いま何時か、現在の居住地はどこか、職場はどこか、今日は休日かと、ひとつずつ確認していくことで、現実を取り戻す。時に、夢で負った物理的ダメージまで現実に持ち帰ってくることがあり、これが地味にきつい。

between nightmares

  • 授業中、二階堂浩平(ゴールデンカムイに出てくる双子の一等卒)が突然散弾銃を発砲。仲良くしていたクラスメイトに弾が命中。パニックになり、イとバとドが混ざったような叫び声を上げ、その叫び声が現実の自分の耳に届いて目が覚めた。というか現実の自分の叫び声だったようで、無茶な発声で喉をしたたかに痛めた。
  • ゴールデンカムイに出てきそうな気の短い貴族階級のおっさんのご機嫌取りに失敗して電気椅子にかけられ、そのスイッチを自分で入れさせられる。全身に電流が流れると同時に、右側から短銃で頭を撃ち抜かれた。顔の痛みで目が覚めて、しばらく顔の右側と腰が痛かった。パッと見、外傷なし。
  • エレベーターの扉が閉じかかっているところへ車椅子のおばあちゃんが駆け込んできて、フロアの床とエレベーターとの隙間にするりとめり込んで落下(壁抜け?)したのち、動き出したエレベーター床面からおばあちゃんの手だけがニュッと出てきて腰を抜かす。断面あり。
  • 中田英寿氏とたまたま同じエレベーターに乗り合わせた直後、強めの地震が発生して停電。ワイヤーロープが切れたのか、乗っていたゴンドラが落下。「うおーっ! 死んだ! 死んだ!」と、暗闇の中でキャラになさそうなことを叫ぶヒデ。このとき現実世界でも結構な規模の地震が起きていた。
  • かがり火が焚かれた真夜中の屋外で、聖飢魔Ⅱの構成員の皆さんに通せんぼされながら、デーモン小暮閣下に追いかけ回される。当時3歳。泣き叫びながら起きた初めての体験は今も忘れられないけど、今では聖飢魔Ⅱは好き。

夢の中で散々な目に遭っているとはいえ、日常生活に支障をきたしたことは今のところ無いし、こんなことが一生続くのが何かしらの特性だったらば受け入れもできるし、まだまだ許容範囲内であるといえる。今後どうなっていくのかについてはちょっと心配ではあるけれど。

……が、10年後においては定かではない

そんな状態の続く自分がひどく心惹かれたゲームがある。割と新しめだけど、去年発売された「ペルソナ5 ザ・ロイヤル」と「龍が如く7」だ。どちらも実在する都市をモデルとしたリアルな造りの街を舞台とし、現実にあったことを彷彿とさせるようなイベントがたくさん起きた。ロイヤルの追加エピソードもまた、とても共感できる内容(ネタバレ配慮ゾーン)だった。フィクションとわかっているつもりが、「もしかしたら、これは現実にあったことなのかもしれない」と考えてしまい、もしパレスやオタカラが、異人三やブリーチジャパンが実在したら……と、想像が連鎖する。
完成された物語は、説得力のある現実を描くだけでなく、ちゃっかり未来を予言してみせたりと、巧みに心理をくすぐって、虚構と現実の境界線をぐちゃぐちゃにしてしまう、スリリングな魅力に溢れている。改めて考えてみると、物語の楽しみ方として、世界設定や出来事を現実に持ってこようとする強い癖があるのかもしれない。だからこそ、余計に。

信じたくて、疑う

なんでこんなことを考え始めたかというと、ある作家さんのTwitterの投稿に対するリプライに、虚構と現実の区別が不自由な人を腐すような言い方をする人がいて、そういえば自分は区別ちゃんと出来てるかなぁと考えたのがきっかけで、その結果、思いのほか出来てる自信がないという結論に至ったわけで。
自信がないから、都度疑って確かめてみたって、遅くはないはず。
にしても、時折見る悪夢は、手段にしては刺激が強すぎる。何とかならないだろうかね。